ssh503 総閲覧数900,000件のお礼 [御挨拶]
このたび、総閲覧数が90万件となりました。たくさんのご訪問、本当にありがとうございます。
当時、就職活動は4年生の10月1日が解禁という取り決めになっていました。10月1日になると、あちこちの会社に大学生がやってきて(当時は会社訪問と言いました)、TVカメラも解禁日の学生を追っていました。
ここのところ、節目のご挨拶は私の昔話が続いております。
ssh409の60万件は、極めて不純な動機で頑張った大学受験のお話。
ssh466の80万件は、中学時代の音楽の先生に勧められて始めた合唱のお話。
さて、90万件の今回ですが、就職活動のお話を書きたいと思います。
今やすっかり難行苦行となった、あのシューカツです。
私が大学に入学したのは1981年の4月。バブル経済の序章のころです。
1960年代の高度成長がオイルショックで終わり、その後、円高(つーても1ドル200円台)という輸出産業への逆風もありながら、それらをしぶとく耐え抜いた日本経済は、80年代に再び目覚ましい成長を始めます。
その他の分野でも、何かとトラブルの多かった欧米企業に対し、ひたすらカイゼンを続けてきた日本企業はついに優位に立ちます。
1945年の敗戦の記憶が残る人々にとって、経済力でアメリカ初め旧連合国側各国を下に見られる立場に立ったことは、痛快であったはずです。日本は浮かれていました。
好況は、不動産価格を押し上げます。土地も建物もすごい勢いで値上がりします。特に都市部はマンションが億単位になり(万ションじゃなくて億ションなんて言われました)、不動産取引であぶく銭が動きました。あぶく銭を手にした人はもちろん散財します。不動産に手が出ない人はというと、どーせ家土地は買えないのだからと、それ以外のもの=クルマや飲食や旅行やオンナへの貢ぎ物に散財しました。
好況ですから、就職事情は売り手市場。大学生の就職活動は実にeasy jobでした。内定が3ケタなんて人もいたくらい。
そんな上り調子の世の中だというのに、私は就職浪人をしています。それも2回も。
ただ、80年代になると協定破りも常態化していて、8月くらいから内々定をもらうケースもありましたが、それでも3年のうちにスタートするなんて今日日のようなメチャクチャなことはなく、正規の内定(ってのもヘンですけど)は10月以降に出されました。
さて、空前の好景気へと向かうニッポンの大学4年生だった私は、一応の就職活動をしてはいました。
が、どーも身が入りませんでして。およそ本気で就職をしようという感じではなかったです。
生まれ故郷で教育実習をしたものの、何が何でも教員になるんだという決意もなく、大した準備もせずに臨んだ教員採用試験は1次試験で補欠となっておしまい。
10月1日からの活動も、出版社や大手マスコミなどの妙に立派なところをいくつか受けただけ。もちろん全滅。
困って大学の教務掛に相談したところ、けっこう大きな貿易会社のクチがあると提示されました。
しかし、結局それも断って、大学にもう1年いることにしました。
今こうやって書いてみても、相当ひどい学生ですね。今の私が当時の私に会ったら、でかい石の一つも抱かせて海の中に放り込んでやりたくなります。
この甘ったれの22歳は、一体何を考えていたのか。
人生とか世の中に対して、かなり捨て鉢になっていたんですよ。
もちろん最大の原因は、本人の甘さ。
憧れの大学にストレートで合格して、すっかり舞い上がってうぬぼれて、高校時代のような地道さをまったく失っていた。おかげで学力は高校時代より下がっていた。読書や旅行やバイトで見聞を広げることもせず、社会に出てから何をするのかを真剣に考えることもなく、ダラダラと日々過ごしていたわけです。
大学って、そういう人間がけっこういるんですよね。私の周囲にも留年はいっぱいいて、中にはクビになった人間もいました(同一学年で3回留年するとクビだったのです)。
また、20代の私は、やたらと腹を壊したんです。特に午前中がいけなくて、それでよく授業を休んでいました。今にして思えば過敏性大腸炎ってヤツだったのかもしれませんけど。高校までは全然そういうことはなかったんですが。
プライベートでもちょっとあれこれありまして、かなり気が滅入っていました。
加えて、当時の世界情勢もすごーくイヤだったんです。
アメリカではレーガン、イギリスではサッチャー、日本では中曽根康弘といったタカ派が台頭して、冷戦がふたたび激化していました。イギリスのフォークランド侵攻やソ連のアフガニスタン侵攻が起きて、あー人間ってのは全然歴史から学ばないんだとすっかりニヒルな気分になっていました。
当時よく聴いてきたピンク・フロイドというバンドが「the final cut」という暗ーーー(中略)ーーいアルバムを出したのがこの頃です。終戦後の夢(the post war dream)がはかなく崩れて、核爆発にクルマごと蒸発しながら「ashes and diamonds, foe and friends, we were all equal in the end」—燃えてしまえば灰とダイヤモンドも敵と味方も皆同じ、という絶望ソングの数々。リーダーのロジャー・ウォータースもすっかり世をはかなんでいたんですな。
そんなこんなで、地道な仕事に就いて普通の社会人となって、バブルの世にデビューするという意欲が全然湧かなかったんでしょうな、22歳の私。
さすがに翌年はそんなこともやってられないので、マジメにシューカツしました。教員採用試験もマジメに受けました。その結果、某自動車メーカーの最終選考に残り、教員採用試験は大学所在の県と出身地の県の2県を受けて、大学所在県の方でB採用という結果をもらいました。
教務掛の先生に相談したところ、英語のB採用はほぼ間違いなく正規採用になると言われたため、自動車メーカーの方はお断りを入れ、胸を張って卒業式を迎えました。
あとは赴任先となる高校からの電話連絡を待つばかり。私はアパートで日々電話を待ちました。
電話は、来ませんでした。
今こうやって書いていて、当時を思い出してちょっと涙目になってます。それくらい切なかったんです。
4月上旬、失意のどん底の私は、就職に備えてまとめておいた荷物をそのまま実家へ送付し、列車で郷里へと向かいました。実家に帰った私は、いわゆるプータロー。
いかなバブルと言えども、既卒者の(しかも職歴なしの)プータローのニーズはありません。たまに履歴書を送っても書類選考でアウト。
既卒者も新卒者も同条件で受け付けてくれるのは、公務員試験くらいしかありません。
覚悟を決めた私は(遅いよ)、必勝態勢で教員採用試験に臨みます。英語を基礎から勉強しなおし、教職教養もやり直し、高校時代にお世話になった先生方にも相談し、やれることは全部やりました。
で、ようやく1次試験(筆記)に合格し、2次の面接に進みました。
面接は、人生最大という開き直りで臨みました。
というのは、それまでの就職試験で最終面接に進むこともあったですが、その度に極度の緊張から妙に卑屈な態度になって、言いたい事もきちんと言えずに不合格となっていました。
あんな悔しい思いはしたくない、言いたい事は全部言ってやる、それでダメならもう何とでもなれと、そんな覚悟で臨みました。例えば、
面接官: 本県でも学力が振るわないという指摘が出ているのですが、その要因はどこにあると思いますか?
私: 教える先生に問題があるんじゃないですか?
うわ、ひでー。
でも当時はそう思っていたんですよ。オレにやらせてみろよ、もっとうまくやってみせるぜ、と。
若気の至りですねえ。橋下某みたい。
でも、面接官の先生、「実は私たちもそう思っているんですよ。」と返してきまして。ちょっとびっくり。
合格の連絡が来たのは冬だったと思います。母親、泣いてました。
ただ、私には一抹の不安がありました。何せ前年に別の県で合格不採用でしたんで。
3月、私の留守中に、父親が初任校となる高校からの電話を受けました。
父: それでさ、どこだと思う?
私: 大体若手は遠くに飛ばされるっていうから、ここから一番遠い××市か△△村あたりの高校じゃないの?
父: それがさ、隣の市の◯◯高校なんだよ。
あらビックリ。◯◯高校は、私の実家から8kmほどのところにある大きな高校です。
実は、前年にアパートから送った荷物の大半を、私は開梱してませんでした。
理由は、就職が決まったらどーせ引っ越しだと思っていたから。
実家から通えるとなれば、安月給の教員(当時は民間の方がずーーーーっと給料は良かったのです)がわざわざ一人暮らしをする必要はありません。あわてて梱包を開けて新生活の準備を始めました。
1年間のプータロー生活は、実にムダな時間でした。4年のときにさっさと就職して、イヤになったらそれから教員試験に挑戦してもよかったと今は思います。
ただ、プータローをしたおかげで、身にしみたことはあります。
やることがないのは、本当につらい。
若いから気力も体力もあるのに、仕事がない。仕事がないからゼニもない。時間だけはたっぷりある。
ただただヒマだけがあるというのは、実につまらないことです。こと私の場合。
めでたく就職した私を待っていたのは、1年365日中362日出勤、帰宅は9時台、給料は手取り12万円額面14万円、手取り10万円ちょいという苛烈な生活でした。誰だ、教師は恵まれてるなんて言いふらしたのは。
でも、割と耐えられました。それは、「多忙は超ヒマよりなんぼかマシ」だったから。
この初任校では、いい先輩方にいろいろなことを教えてもらって、すごく勉強をさせてもらいました。
やっぱ、大学に合格したら、それでいいってもんじゃないんですな。今も昔も。
かつての教え子が合格体験記に「合格はゴールじゃない」と書いてましたけど、18歳でそれを認識していた彼女はなかなか聡明です。
それでは、これからもssh-スーパー小論文ハイスクールを、よろしくお願いします。
―追記―
給与に関するコメントが多かったので、改めて初月給の明細を見てみたところ、給与月額13万円ちょっと、諸手当込みで15万円弱、そこから所得税と共済掛金(年金掛金のこと。当時は今よりかなり安かった)が引かれて差引支給額は12万5千円となっています。私はこの明細をときどき見返していたので、これが自分の実質手取りだと勘違いしていたのです。
民間のことはよくわからないのですが、公務員の場合、4月の給与からは最低限の控除だけがされます。それ以外の住民税やら保険やら積み立て(歓迎会や送別会など公的な宴会のためのお金)やらは5月以降に控除されるようになっていました。だから実質的な私の手取りは10万円ちょっとでした。
私は自宅から通勤していたので住宅手当はなく、通勤手当も近距離なのでごく少額でした。だから額面上の給与は同僚さんよりも低めでした。
はじめてもらった給料の明細と給料袋は今でも大切に取ってあるのですよ。初月給をもらった時、両親と、世話になった親類にちょっとしたプレゼントを買って贈りました。ずいぶんご迷惑とご心配をおかけしましたからね。





昔は、それこそ就職先なんていくらでもありましたよね。
バブルのあたりなんて、初任給も高く、進入写真でも海外旅行とか考えられた時代でしたね。でも、あの好景気は結局正しくなかったんですものね。
by HIROMI (2012-01-28 01:30)
あ、90万アクセスおめでとうございますって、言うのをわすれました。
by HIROMI (2012-01-28 01:31)
私が、昭和58年(1983年)に就職したとき、初任給は11万5000円だったと記憶しています。手取りは9万円くらいだったかな… 地方の中小企業の初任給はその程度だったのです。
by 心如 (2012-01-28 01:49)
90万アクセス、おめでとうございます!
また、ちょっと切ないお話、身にしみました。わたしは、1984年に就職しましたが、数学は免許持ちが少ないので、幸いあまり苦労した思いはありません。
by tyuuri (2012-01-28 12:57)
私は平成元年に就職しましたが、もう少し手取りは多かったと思います。残業付いて12万円だときついですね。広島でもあの頃は相当数の人が長時間残業していたはずです。毎日零時前後のバスに乗って帰宅していたのですが、その時間でも満員で乗れないこともしばしばありました。深夜バスとして午前2時台までバスが存在していました。(多分今はないと思います)それでも満員だったんです。いろんな意味で異常な時代でした。
by nbou (2012-01-28 13:48)
>ハマコウさん、niceありがとうございます。
>心如さん、nice&コメントありがとうございます。
心如さんのコメントを読んで、改めて確認してみたら、私の手取りはもっと少なかったようです。ありがとうございました。
>HIROMIさん、niceありがとうございます。
旅行と言えば、当時は「卒業旅行」が流行ってましたっけ。社会人になる前に海外旅行に行こうという企画で、旅行社もそういうプランを商売にしていました。
私の高校時代の友人は卒業旅行でヨーロッパに出かけたのですが、その旅行中に日航123便の墜落事故が発生して、帰路の機内では本来流れるはずのNHKニュースが流れなかったそうです。まあそりゃそうですわな、まさか飛行中の機内で墜落現場のニュースは流せません。
>tyuuriさん、nice&コメントありがとうございます。
でもtyuuriさんは教員になるために大学受験をやり直しているんですよね。私からするとすごいなあと思います。
>bashyさん、niceありがとうございます。
>nobuさん、コメントありがとうございます。
教員は残業手当ってものがないですから、何時に帰ろうがもらえるものは同じなんですけど、でも確かに新任1年目はきつかったですね。
バブルの最盛期は高卒1年目の社員が残業と休日出勤で私たちよりも多額の手取りをもらうのがザラでした。何せ当時の公務員の要求は「給与を民間並にしろ」でしたから。ずいぶんと時代は変わったものです。全然嬉しくないですが。
by shira (2012-01-28 23:28)
shiraさん、いろいろとあったのですねえ。
同時代に生きていた僕としては、懐かしい思いに浸りました。
僕も就職では、2転3転しました。
僕は一度民間にいました。
いつか書いてみたいです。
「やることがないのは、本当につらい。」
これ、本当によくわかります。
いいお話をありがとうございます。
by ムッシュ (2012-01-29 04:58)
総閲覧数900,000件とはかなりのハイペース。
あらためまして、おめでとうございます。
>やることがないのは、本当につらい。
やはり、モノゴトは機が熟してから…っていますからねぇ。
(^ー^)
by きゅんぱち (2012-01-29 10:46)
以前書いたんですが、公務員批判が政府も地方自治体も多いように思えます。過去の収入しらないので気になってます。
shiraさんの場合民間平均より高いと言えないようですね。
この時世論は「民間並みにすべき」と盛り上がったんでしょうか??
by ayu15 (2012-01-29 13:52)
>ムッシュさん、nice&温かいコメントありがとうございます。
大学に入ってから就職するまでの自分の甘ったれた姿勢については、何度思い出しても悲鳴を上げたくなるほど恥ずかしいんですよ。たぶんこのネタは数年前なら記事にできなかったと思います。50近くなって、ようやく総括できたという感じです。
>きゅんぱちさん、nice&コメントありがとうございます。
プータローになった私にとって救いだったのは、両親も親類もあまり私を非難したかったことです。これは兄に感謝する必要がありそうです。彼は私以上に大学で道を踏み外しましたから。
>あゆさん、いつもnice&コメントありがとうございます。
1990年くらいまでは公務員の主張は常に人事院勧告完全実施でした。理由はいつも値切られていたから。民間給与が7%上がると、人事院勧告は5%くらいのアップで、実際に国も都道府県も4%くらいしかアップしてくれないという感じでした。時が流れて民間がダウンするようになったら、人事院勧告は民間のダウン幅と同等かそれ以上のダウンを提示して、国も都道府県もそれをきっちり完全実施するか、それ以上の独自カットをするかでした。
東京あたりのデカい企業に務めている人間に「公務員は厚遇だ」とか言われるとすごく腹が立つのは、まあそういう経緯です。私たちは本来もらえるはずの増額をもらえたことはないのです。
by shira (2012-01-29 21:42)
shiraさん いろいろと経験されているのですね
わたしも同時代
教育大学にいたわたしに来た企業からの資料はただ1社
ハンバーグの「さわやか」さんのみ
(最近話題になりなぜか嬉しく思ってしまいます)
教員採用試験合格しかなく 精一杯頑張っていた頃を思い出します
就職後 すぐにバブルの時代
証券会社に入った友人から
「給料の安い公務員なんてよくやっているね」
と言われましたが…
まさか こんな時代がくるとは…
by ハマコウ (2012-01-30 20:49)
>マチャさん、niceありがとうございます。
>ハマコウさん、コメントありがとうございます。
同世代ですか、何か嬉しいですね。
大学時代の友人の多くが民間企業に就職しましたが、やはり彼ら彼女らの給与はとても高かったです。駆け出しのころは友人のみならず保護者や生徒にまで「安月給なのに大変だね」と同情されましたっけ。
by shira (2012-01-30 22:06)